感謝というのは不思議なものだなと思っていますが、よく「昨日はありがとうございました」とか、「この間はありがとうございました」と言われた時、大抵は何のことだっけと直ぐに思い出せず、
よくよく考えて、「あぁ~、あのことを言っているのか」と思うものの、自分では別に何もしてないから、「そんな感謝なんかしなくていいよ」と思ったりもします。
しかし長年かかってようやく分かった、最新の理論みたいなものを特別に教えたりすると、今まで苦労して来て、最も価値の高いものだから一番感謝して欲しいのに、不思議と全く感謝されません。
「いやいや、あなたがこれに行きつくまでに、どれぐらい苦労するか分かっているの?」「あなただったらどのぐらい時間がかかる?」「いくらお金かかる?」「一生無理でしょ」
「一般に公開しないものをあなたに特別に教えているんだぞ」「それ本当に分ってる?」と思うのですが、「ふ~ん」とか「へ~」とか「ぽか~ん」といった反応になります。
恐らく他の方も、子供のために毎日ご飯作っている、塾代や学費を稼ぐために毎日働いているのに感謝されないなど、自分が一番感謝して欲しいことを感謝されない、ということはあるでしょう。
しかし残念ながら、聖書にも、
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」
とあるし、脱水で死ぬほど喉が渇いている人が今欲しいのは、高級メロンパンではなく、カルキ入り水道水をくれる人で、
欲しくもないプレゼントを貰っても感謝出来ないし、また相手が悪いのかというと、必ずしもそうでもありません。

また感謝してくれるのだけど、感謝しているのはこっちの方ということもあり、こっちが感謝しているのだから、
相手が自分に感謝などするはずがない様な感じもしますが、しかしお互い感謝し合うという、気持ち良すぎて気持ち悪いみたいな、なんとも不思議なこともあります。
私は見ず知らずの困っている人を助けることが好きですが、助けて貰えた人が感謝するのは当然でしょうが、
むしろその人以上に、喜んで貰い、感謝して貰えると氣を貰えるので、そうすると何とも言えない感覚で非常に気持ちがよく、こちらの方が感謝してしまうのです。
またそんな一度しか会わないような、一期一会の関係の人でも、氣が通じ合えれば、今でも助けた自分の方が感謝していて、思い出に残っていたりします。
合気道では力は使わないと言われたりしますが、自分の延長で技を覚えるだけでは、形は合気道でも、中身は柔術や力技です。
それを力を使わないようにするために、どうすればいいのか、どうすれば相手からの抵抗を受けないのか、力ではない原理は一体何なのかを考えると、一つは感謝ではないかと思います。
合気道の達人が、「合気道で最も強い技は何ですか?」と聞かれた時に、「自分を殺しに来た相手と友達になることだ」
と答えたそうですが、悪い人をやっつけてやろうとか、怖いから拒否するというのが、普通の感覚で、それを心から感謝されたら、肩透かしになったり、おかしな感じになるでしょう。
常識の延長では、たとえ合気道を新しくやろうとも、合気道という形が変わっただけで、常識的な結果にしかなりません。
それを感謝してしまうなどという、真逆のことを行えば、常識では考えられないことが起り、力が必要なくなります。
達人や悟りでも開かなければ、自分を殺しに来た相手と友達に中々なれませんが、まずは自分の親しい人や仲間、
相性のいい人などとは、拒否したり、分離したりせず、一つになって、お互い感謝攻撃をし合いたいものです。
そのためには頭ではなく、心の奥に従い、また少しずつブレーキやブロックに気付いて解除して行き、素直になって氣を引っ込めず、氣を出し氣を与え、エネルギーをお互い交換し合う。
そのエクササイズやワークの一つとして、札幌女性合気道の合気道があります。
力ではない感謝で相手を倒す合気道を一緒に学びましょう。