かつては入門を許されると素振りだけに三年をかけさせられた。そこで型稽古に進めるかどうかが見極められたのだ。その時点で師から許しが出ず、見込みがないとわかれば道場を去らねばならなかった。
それでも振武舘で修業を希望する者は、ほかで修業をした上で再度入門を乞う形をとるしか手立てはなかったのである。
中国などでは現在でも武術を指導するさいは、基本だけ、例えば立つだけで三年も四年もかけるそうだ。師が良しとしなければ、それが七年も十年にもなる。何年も居させてくれるだけでもありがたいことだ。
基本だけ、あるいは僅かな基本の動さだけにそれだけの時間をかけるのだ。いや、かけさせてもらえるのだ。本当のこと、本当のものを伝えようとすれば、そうならざるを得ない。
駄目な動きのまま、何をどう動いてみても技など生まれない。形骸化である。そんな型を何十本、何百本知っていても武術的にはまったく無意味なことは明白だ。
何十流派の極意、秘伝の型を知っていようともそれは同じである。動かぬ身体、使えない身体では何もないも同然だ。
中略
ほんとうに難しいということが理解できるまでには、それなりの時間がかかるということだ。口では難しいという言葉がでても、それはわずか半日、一日の稽古量で理解し得た難しさだ。
ほとんど何もわかっていないというのが真相だろう。だがこちらにはそれほど難しいものが日本の古伝の武術なのだということを理解してもらいたいという心理的板挟みがある。
正直いって、難しいものをやさしく解きほぐして安易に理解してもらおうなどとは一度も思ったことはない。
難しいものを現代の言葉でわかりやすくするのは、そのことによってその難しさをもっと明確に理解してもらうためでしかない。
ほら、手の上げ下げすらできないでしょ、まして床を蹴らずに歩むということなど不可能なほど難しいではありませんか、武術の世界においては何もできない自分というものが自覚できませんか、ということを訴えたかったのだ。
